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355件のアーカイブスが見つかりました。

条件:愛媛県 東温市

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享保17年の干ばつ

享保17年(1732)、大干ばつのため、松山藩内10郡の代官の評議の結果、5月に川之内の雨滝神社、牛淵の浮嶋神社、北野田の三嶋神社が合同して「御面雨乞」が行われた。 続きを読む

享保17年の長雨

享保17年(1732)5月20日から7月上旬まで雨降り止まず、次いでウンカが発生した。物価が騰貴し、飢饉となり、享保17年11月19日に藩が幕府出した届け出によると、餓死者は3,489人に達した。伊予郡筒井村の農夫作兵衛が麦嚢袋を枕に餓死したのはこの年9月23... 続きを読む

享保17年の洪水

享保17年(1732)5月20日より、天候不順となり霖雨続き、重信川が氾濫した。続いて、6月初めよりウンカが発生した。このため、農作物は収穫皆無となり、穀類は高騰し、松山藩内の餓死者数は、享保17年11月29日の幕府への届け出によると、3,589人に達した。伊... 続きを読む

元文4年の水論

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元文4年(1739)、菖蒲堰で水論。(「重信町誌」、「川内町新誌」による)(伊予の水論〔水争い〕年表) 続きを読む

元文4年の水論

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元文4年(1739)、菖蒲堰の分水をめぐって、樋口外4ヶ村と北方村で水論があったが、分水率は明確に決まらなかった。(東温市の水利年表) 続きを読む

元文4年の水論

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元文4年(1739)、菖蒲堰の上堰を利用していた北方村が堰を二重にするとともに、中世以来の禁止条項を破って土砂を用いて取水を始めた。用水が枯渇した下堰の樋口・志津川・西岡3ヶ村が抗議したが、北方村が慣行に従わなかったため、下堰側3ヶ村民は実力行使で堰を切り崩し... 続きを読む

元文4年の水論

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元文4年(1739)6月、干ばつにより重信川の流水が減少したため、菖蒲堰の上堰側は堰を二重にして慣行の禁止事項である土砂でせき止めた。このため、下堰側はこの措置の不当を訴えて、北方村庄屋に抗議をした。しかし、上堰側も用水量が不足していたため、話し合いは進まず、... 続きを読む

元文4年の水論

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元文4年(1739)6月、干ばつにより重信川の流水が減少したため、菖蒲堰の上堰側は堰を二重にして慣行の禁止事項である土砂でせき止めた。このため、下堰側はこの措置の不当を訴えて、北方村庄屋に抗議をした。しかし、上堰側も用水量が不足していたため、話し合いは進まず、... 続きを読む

元文4年の水論

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元文4年(1739)6月、菖蒲堰の上堰と下堰の分水をめぐり、水論が起こった。 続きを読む

元文4年の台風

元文4年(1739)8月5日、暴風雨。 続きを読む

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