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223件のアーカイブスが見つかりました。

条件:愛媛県 松山市 渇水

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文政6年の水争い

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文政6年(1823)6月10日、突分ヶ堰をめぐり南吉田村と余戸村・垣生村の間で乱闘が起こり、南吉田村の忠七が横死した。この時は、近郷の寺の僧侶が仲介に入り、新たな分水法を定めて決着した。さらに、25回忌の弘化4年(1847)に「南吉田村忠七墓表」が建てられ、「... 続きを読む

嘉永5年の干ばつ

嘉永5年(1852)、干ばつ。 続きを読む

嘉永5年の干ばつ

嘉永5年(1852)、大干ばつ。(「余土村誌」による) 続きを読む

嘉永6年の干ばつ

嘉永6年(1853)夏、干ばつ。(「伊予風水害小史」による) 続きを読む

安政3年の干ばつ

安政3年(1856)、大干ばつのため、上井手の掘り浚えをめぐって徳丸村と森松村の間で紛争が起こったが、代官の取り計らいで和解をみた。 続きを読む

慶応元年の干ばつ

慶応元年(1865)、干ばつ。 続きを読む

慶応元年の干ばつ

慶応元年(1865)、干ばつ。(「新居郡誌」による) 続きを読む

慶応3年の水論

慶応3年(1867)、高井村北分が野都合泉の揚水を強行したため、南分の農民が妨害し五反地泉の掘増をしたため、乱闘事件に発展し、死者1人、負傷者18人が出た。明治3年(1870)、「五反地・塚原両泉並ニ野都合泉井手筋定書之事」の定書を交わして解決した。 続きを読む

慶応3年の干ばつ

慶応3年(1867)夏、干ばつ。 続きを読む

慶応3年の干ばつ

慶応3年(1867)夏、干ばつ。(「新居郡誌」による) 続きを読む

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