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条件:愛媛県 松山市 渇水

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天明7年の水論

天明7年(1787)、南久米・北久米・来住と日瀬里(窪田)の間で水論。(「久米村誌」による)(伊予の水論〔水争い〕年表) 続きを読む

天明7年の水論

天明7年(1787)から翌8年にかけて、日瀬里村の権名津の新井手をめぐって、日瀬里村と南北久米・来住の各村間で水論があった。南北久米・来住の各村が権名津の新井手に反対したが、藩が天明7年7月に実情調査し、日瀬里村に有利な判定をしたため、南北久米・来住の3ヶ村の... 続きを読む

天明5年の干ばつ

天明5年(1785)、干ばつ。 続きを読む

天明5年の干ばつ

天明5年(1785)夏、干ばつ、田畑不熟により、損毛16,428石。(「松山叢談」 続きを読む

天明5年の干ばつ

天明5年(1785)夏、干ばつにより、損害大。(「松山叢談」による) 続きを読む

天明5年の干ばつ

天明5年(1785)夏、干ばつ、田畑不熟。(「松山叢談」による) 続きを読む

天明5年の干ばつ

天明5年(1785)夏、干ばつ。(「松山叢談」による) 続きを読む

天明4年の干ばつ

天明4年(1784)、干ばつ、虫のため飢饉。(「余土村誌」による) 続きを読む

明和8年の干ばつ

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明和8年(1771)、干ばつのため、6月8日、八倉・宮ノ下・上野・徳丸・出作各村の700人の集団が小樋井手を切り落としたため、上麻生・下麻生両村民と矢取川で乱闘となった。この争いで宮ノ下村六兵衛、八倉村作左衛門の2人が死亡した。天領から死者が出たため、大洲藩も... 続きを読む

明和8年の水論

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明和8年(1771)、伊予郡両麻生村と下5ヶ村の水論起こり、死傷者あり。麻生の組頭窪田兵右衛門等、備中笠岡の獄に投ぜられる。(「愛媛県農業史」、「伊豫市誌」等による)(伊予の水論〔水争い〕年表) 続きを読む

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