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223件のアーカイブスが見つかりました。

条件:愛媛県 松山市 渇水

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天明5年の干ばつ

天明5年(1785)夏、干ばつ。(「松山叢談」による) 続きを読む

天明7年の水論

天明7年(1787)、日瀬里(窪田)村の農民が新井手をつくって、内川の梅斉院堰から来住への流水を新田に引いたことから、梅斉院堰掛かりの来住・南久米・北久米三ケ損の農民が実力行使に出て紛糾した。藩の調停を不服とした三ヶ村の農民は大洲藩主に直訴すると称して、大洲領... 続きを読む

天明7年の水論

天明7年(1787)、南久米・北久米・来住と日瀬里(窪田)の間で水論。(「久米村誌」による)(伊予の水論〔水争い〕年表) 続きを読む

天明7年の水論

天明7年(1787)から翌8年にかけて、日瀬里村の権名津の新井手をめぐって、日瀬里村と南北久米・来住の各村間で水論があった。南北久米・来住の各村が権名津の新井手に反対したが、藩が天明7年7月に実情調査し、日瀬里村に有利な判定をしたため、南北久米・来住の3ヶ村の... 続きを読む

寛政元年の干ばつ

寛政元年(1789)5月~6月、干ばつ。(国津比古命神社の「御田植の額」による) 続きを読む

寛政2年の干ばつ

寛政2年(1790)夏、干ばつ。(「松山叢談」による) 続きを読む

寛政2年の干ばつ

寛政2年(1790)夏、干ばつ。 続きを読む

寛政2年の干ばつ

寛政2年(1790)夏、干ばつ、田畑不熟。(「松山叢談」による) 続きを読む

寛政2年の干ばつ

寛政2年(1790)、干ばつのため、松山藩で被害は74,500石余に及んだ。 続きを読む

寛政11年の水論

寛政11年(1799)、水論のため、南吉田村より総百姓が押し寄せて来た。(「余土村誌」による) 続きを読む

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