検索結果

100件のアーカイブスが見つかりました。

条件:高知県 香美市

年代順で並び替える : |

大正6年~7年の干ばつ

大正6年(1917)11月、干ばつにより、物部川の水が著しく減少し、その後も翌年1月にかけて少雨が続いたため、三島村では井戸水が涸渇し、全戸が飲み水にも困る状態になった。このため、山田堰土工組合では、山田堰の砂吐きを切り落とし分水して、村民の困窮を救った。 続きを読む

大正4年の洪水

image

大正4年(1915)6月19日から25日まで雨が降り止まず、24日には物部川中上流で降水量が100ミリを越えたため、洪水が山田堰西部の主要棒を一掃し、堰裏から堤防まで61間半壊したという。(「立田村誌」による)この洪水で、山田堰の井堰が全部破壊されたので、土工... 続きを読む

明治32年の台風

明治32年(1899)、台風により、仁淀川では多数の死者を出したが、物部川では西岸竹が鼻の堤防が約100間決壊した。また、8月28日の台風では、高知城の天守閣のシャチや測候所の風力計が吹き飛ばされるなどの強風が吹き、「山田文化小史」には「電火起り火竜巻くこと空... 続きを読む

明治27年の干ばつ

明治27年(1894)、この年は60年来の旱害と言われた。新改川下流の植田・久次地区は上流に分水を要請したが。上流も余裕がなく、甫喜峯疏水計画の最中であったが、これを拒否した。このため、植田・久次地区はツイノイ堰を襲い、上流側と乱闘となった。後免署から警官50... 続きを読む

明治26年の干ばつ

image

明治26年(1893)、水不足となったが、これまでの水争いに疲れていた新改川沿川の村の人たちは、雨乞いをした。この時に持ち上がったのが甫喜ヶ峰(ほきがみね)疏水の計画であった。これは穴内川の水を新改川に引き入れるもので、久礼田や新改の村長などが計画を進め、高知... 続きを読む

明治26年の干ばつ

明治26年(1893)、干ばつにより、植田地区350石、久次地区80石、須江上改田20余石の田は枯死寸前となった。植田・久次の農民はツイノイ堰(須江本田堰)を破壊しようとしたが、急報により100余名の警官が出動して堰を守り、事なきを得た。この水論を契機に、水争... 続きを読む

明治25年の洪水

image

明治25年(1892)7月23日、大洪水により、山田堰の堰体及び水越が破壊された。(「山田堰」による) 続きを読む

明治25年の台風

image

明治25年(1892)7月13日、台風が高知市付近に上陸し、北西進し、物部川沿岸に大きな被害を与えた。また、23日~26日の4日間続いた雨で物部川は大増水した。この洪水で、西岸の三島村(現南国市)久枝井水門の下方より大曲まで約3町(約230m)が決壊し、流失家... 続きを読む

明治19年の台風

image

明治19年(1886)には、8月20日~21日、9月10日、17日、24日と4回の台風が来襲し、物部川の出水がひどく、山田堰の被害も大きかったというが、災害復旧工事の記録は残されていない。 続きを読む

明治9年の干ばつ

明治9年(1876)、日照りが続き、大変な水不足に襲われた。この時、新改川の上下流で水争いが起こった。下流の植田・久次(ひさつぎ)の人々が新改川のコロンボ堰を壊し、コロンボ堰から引水している須江の人たちが修理をするなど、上流と下流の水争いが続けられ、怪我人が出... 続きを読む

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10