明和8年の干ばつ

災害年月日
1771年07月19日
市町村
愛媛県砥部町、松山市
災害種類
渇水  
概要
明和8年(1771)、干ばつのため、6月8日、八倉・宮ノ下・上野・徳丸・出作各村の700人の集団が小樋井手を切り落としたため、上麻生・下麻生両村民と矢取川で乱闘となった。この争いで宮ノ下村六兵衛、八倉村作左衛門の2人が死亡した。天領から死者が出たため、大洲藩も公式に幕府に届けねばならなかった。このため、各村の庄屋・組頭など308人が備中倉敷の代官所に召還された。この吟味は長引いたが、安永3年(1774)、発議者と名乗り出た下麻生村組頭兵右衛門が死罪になった。(「大洲旧記」による)
地理院地図
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備考
兵右衛門は砥部町八倉雲雀山中腹の衣更着神社に祀られ、八倉公民館裏には兵右衛門の墓がある。
参考画像

参考文献
門田恭一郎「伊予における水論について(下)」(高須賀康生編「伊豫史談 第318号」伊豫史談会、2000年、所収)、37-38頁
情報源の種類
市町村史、郷土史
キーワード
干ばつ 水争い 死者 兵右衛門 大洲旧記
NO.
愛媛1555