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条件:愛媛県 土砂災害

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明治19年の台風

明治19年(1886)9月18日、愛媛県は暴風雨に見舞われた。このため、立岩川、石手川の堤防が決壊したほか、河川の氾濫が相次ぎ大きな被害を受けた。その後も降り続いた雨により、被害は県下全域に及んだ。特に喜多郡櫛生村(長浜町)では須沢川の上流谷の奥で山崩れが発生... 続きを読む

明治19年9月の櫛生村災害

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明治19年(1886)9月24日、台風により肱川、その他の河川は氾濫し、流域の各村で家屋流失、田畑の水没、橋の破壊等被害は甚大であった。その中でも櫛生(くしう)村須沢の被害は特にひどかった。この日午後11時頃、須沢川の水源地「谷の奥」の山腹が約270mにわたっ... 続きを読む

明治19年の水害

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明治19年(1886)9月24日午後7時、風雨がますます烈しくなり、午後11時に櫛生村須沢の奥の谷が100余間崩壊し、山麓の人家が埋没、流失した。堆積は最大72尺に及んだ。須沢での被害は、死者39人(男22人、女17人)、家屋の流失7戸、埋没43戸、倒壊19戸... 続きを読む

明治19年の櫛生村の地すべり

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明治19年(1886)9月24日、長浜町旧櫛生村須沢地区で地すべりが起こり、須沢川の谷に面下山腹が一気に崩壊し、死者39人、家屋の埋没72戸、田畑の流失7.6haという大被害を引き起こした。 続きを読む

明治26年の台風

明治26年(1893)10月14日、台風による豪雨は、歌仙村では山岳崩壊や菊間川の決壊などにより、川上で田畑の流失30町余、家屋の流失2戸、橋梁全て流失、松尾で家屋の流失11戸、高田で家屋の流失5戸、馬1頭圧死、田の流失9町、浸水14町余、池原で田の埋没14町... 続きを読む

明治32年の水害

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明治32年(1899)の別子銅山の大水害に際して、医師高原清二郎氏が胸の上まで水に浸かりながら病院に行ったところ、暗かったため、包帯の古屑の上に石炭油をふりかけて入口で火を付けて燃やしたところ、辺りが明るくなり、住民は非常に力を得た。(「新居浜史談」による)明... 続きを読む

明治32年の台風

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明治32年(1899)8月28日、四国地方に襲来した暴風雨による山崩れ・洪水により、新居郡・宇摩郡の死者は1,200余人に及んだ。このうち33人の遺体は、5日後に香川県の仁尾海岸に漂着した。仁尾町の人々は手厚く葬り、3回忌には「溺死三十三霊之塔」を建立した。 続きを読む

明治32年の別子銅山水害

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明治32年(1899)8月28日、台風により、別子銅山では日降水量が325ミリとなり、特に午後8時20分~9時までの40分間に極めて強い集中豪雨があった。このため、各所で土石流が発生し、見花谷及び小足谷の従業員住宅など別子銅山の各施設が崩壊、流失した。土石流が... 続きを読む

明治32年の台風

明治32年(1899)8月28日、台風により、東予地方の山間部では豪雨となり、宇摩、新居郡、特に別子銅山では大規模な山崩れが続出し、死者512人、家屋倒壊122戸等の惨状を呈した。別子銅山はその施設設備に大損害を受けた。 続きを読む

明治32年の台風

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明治32年(1899)8月28日、東予地方に暴風雨が襲来し、千余人の犠牲者を出した。この記録には、当時神戸新聞の記者であった江見忠功が現地から報告した「別子銅山変災視察録」第1報~第6報が記されている。 続きを読む

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