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条件:愛媛県 松山市 渇水
文政6年(1823)は旱天続きで、下流では植え付けができずに困っていた。6月10日、南吉田村の忠七が西余戸村の井関を切り落としたため、これを知った東・西余戸村の人たちと忠七らは乱闘となり、忠七は鍬を打ち込まれて殺害された。この水争いがきっかけとなって、東・西余... 続きを読む
文政6年(1823)、干ばつのため稲の植え付けのできないところが多く、損毛高は116,258石余に及び、最大の凶作となった。この間、家中、郷町でも雨乞いの祈とうが大規模に行われた。(「増田家記」による) 続きを読む