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34件のアーカイブスが見つかりました。

条件:愛媛県 砥部町

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昭和42年の豪雨

昭和42年(1967)7月の豪雨により、砥部町千足の国道33号で法面崩壊が起こった。 続きを読む

昭和18年の洪水

昭和18年(1943)7月21日から降り出した雨は22日夜より豪雨となって、重信川、砥部川、久谷川が増水した。その後、重信川堤防が決壊して奔流が堤防南側の水田を押し流し、拝志村堤防決壊による濁水が久谷川堤防を押し切り、双方相和して高尾田耕地を経て重信橋南40間... 続きを読む

文政6年の水論

文政6年(1823)、松山領森松の百姓と大洲領麻生村の百姓が重信川原で水論。(「松山市史料集」、「松山市史」による)(伊予の水論〔水争い〕年表) 続きを読む

明和8年の干ばつ

明和8年(1771)6月8日、干ばつのため、麻生と上野ほか5村と水論、死人2名。 続きを読む

明和8年の干ばつ

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明和8年(1771)、干ばつのため、6月8日、八倉・宮ノ下・上野・徳丸・出作各村の700人の集団が小樋井手を切り落としたため、上麻生・下麻生両村民と矢取川で乱闘となった。この争いで宮ノ下村六兵衛、八倉村作左衛門の2人が死亡した。天領から死者が出たため、大洲藩も... 続きを読む

明和8年の水論

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明和8年(1771)6月8日、八倉・宮之下・上野・徳丸・出作の下5ヶ村の農民700人が小樋井手を切り落としたため、上・下麻生村勢200余名との間で乱闘になった。この矢取川の乱闘で死者2人と多数の負傷者が出た。宮之下と上野が天領であったため、関係者が備中代官所に... 続きを読む

明和8年の水論

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明和8年(1771)、伊予郡両麻生村と下5ヶ村の水論起こり、死傷者あり。麻生の組頭窪田兵右衛門等、備中笠岡の獄に投ぜられる。(「愛媛県農業史」、「伊豫市誌」等による)(伊予の水論〔水争い〕年表) 続きを読む

明和8年の干ばつ

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明和8年(1771)の大干ばつにより、下麻生村組頭の窪田兵衛門が死罪を受けるという大水論が起こったことを契機として、伊予市八倉・宮下及び松前町徳丸・出作の共有泉である赤坂泉がつくられた。赤坂泉は、市ノ井手の取水量確保のため、釣吉村庄屋の阿部万左衛門が安永3年(... 続きを読む

明和8年の干ばつ

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明和8年(1771)は大干ばつで、6月8日に市之井手掛5ヶ村の農民700~800人の集団が古樋井手の掛樋を切り落とすという実力行使をしたため、上下麻生方と矢取川の河原で大乱闘となり、天領の南神崎(宮ノ下)の百姓2人が死亡した。天領の南神崎79人・上野4人、松山... 続きを読む

明和8年の干ばつ

明和8年(1771)、干ばつのため、麻生と上野ほか5村と水論、死人2名。 続きを読む

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