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13件のアーカイブスが見つかりました。

条件:香川県 まんのう町(満濃町) 渇水

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宝暦5年の水論

宝暦5年(1755)、高松藩記にも「夏旱」(なつひでり)と明記されるほどの干ばつのため、夫婦湧出水に関する水論が起きた。大川(土器川)の東岸の羽間新田の農民が新井手を掘りつけ、横井をせき立てて水掛かりを良くしたところ、夫婦湧出水の水掛かりである西岸の四條・高篠... 続きを読む

文政4年の水利紛争

文政4年(1821)、日照りのため、6月10日榎井・東西苗田三村の百姓が、炭所西の常包横井を切り崩し、23日には大向荒川横井及び大宮荒川横井を切り崩したことから、水利紛争が起こった。 続きを読む

明治15年の水論

明治15年(1882)8月10日、炭所西片岡の土器川に築かれた薬師堰からの分水をめぐり、長尾側と岡田側の間に紛争が起こった。これは、薬師堰の分水後の水量が少ないことを理由に、長尾側が分水口に石を積んで、分水位をおもじょ岩の基準線よりも高くしたため、岡田側から多... 続きを読む

明治15年の干ばつ

明治15年(1882)8月23日、うち続く干天のため、水の困窮した綾歌町岡田地区と満濃町長尾地区の百姓が衝突した。両地区に分水する薬師堰には、「おじょも岩」の分水慣行(おじょも岩側面の刻線の高さと堰の水面の高さが水平になるように分水する慣行)があるが、長尾側が... 続きを読む

明治27年の干ばつ

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明治27年(1894)、干ばつのため、135日間降雨が皆無であった。この後も数回干ばつの被害を受け、満濃池では堤防を3尺嵩上げするための工事が明治38年(1905)から翌明治39年1月にかけて行われた。 続きを読む

大正3年の水論

大正3年(1914)8月、炭所西片岡の土器川に築かれた薬師堰からの分水をめぐり、長尾側と岡田側の間に紛争が起こった。長尾側は薬師出水の暗渠の出口から水門の入口近くまで大石を並べて仮堰を作り、出水の水を長尾側に取り入れようとした。岡田側は、出水の増水分は亀越池の... 続きを読む

大正13年の干ばつ

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大正13年(1924)、干ばつのため、満濃池の水掛かりは1,120町歩が被害を受け、減収高は11,322石に達した。この干ばつを契機に、満濃池水利組合は満濃池の嵩上げ等の計画を立て、昭和3年(1928)から昭和5年にかけて第二次嵩上げ工事を実施した。 続きを読む

昭和9年の干ばつ

昭和9年(1934)、大干ばつ。昭和11年~15年に県営亀越池用排水改良工事が実施され、堤塘3尺5寸(1.06m)の嵩上げと余水吐の拡張が行われ、満水位の水位が10尺(3.03m)上昇した。 続きを読む

昭和14年の干ばつ

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昭和14年(1939)、大干ばつのため、満濃池の水掛かりは徹底的な被害を受けた。丸亀平野の南部にはある程度かんがい用水を提供することができても、北部には行き届かなかず、満濃池の大改修が待望されるようになった。第三次の嵩上げ工事は昭和15年に県営満濃池用水改良事... 続きを読む

昭和14年の干ばつ

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昭和14年(1939)は、香川県全域にわたり田植期に干天が続き、干害による被害が多かった。8月31日には満濃池が渇水となり、9月7日は県が児童に対して、日の出と日没前に土瓶水を稲田に配水するよう通達したとの記録がある。 続きを読む

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