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1313件のアーカイブスが見つかりました。

条件:愛媛県 松山市

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文政8年の洪水

文政8年(1825)、洪水により、石手川その他諸川決壊し、耕地2,500町歩流失、家屋300余戸流失。(「松山叢談」による) 続きを読む

文政8年の洪水

文政8年(1825)、石手川、内川が大決壊し、市坪村が流損し、余戸村の出合は海の如くになった。(「余土村誌」による) 続きを読む

文政6年の水争い

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文政6年(1823)6月10日、突分ヶ堰をめぐり南吉田村と余戸村・垣生村の間で乱闘が起こり、南吉田村の忠七が横死した。この時は、近郷の寺の僧侶が仲介に入り、新たな分水法を定めて決着した。さらに、25回忌の弘化4年(1847)に「南吉田村忠七墓表」が建てられ、「... 続きを読む

文政6年の干ばつ

文政6年(1823)5月、干ばつ。(「松山叢談」による) 続きを読む

文政6年の干ばつ

文政6年(1823)5月頃から干ばつのため、植え付けができない所が多かった。雨乞い祈祷。 続きを読む

文政6年の水論

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文政6年(1823)は旱天続きで、下流では植え付けができずに困っていた。6月10日、南吉田村の忠七が西余戸村の井関を切り落としたため、これを知った東・西余戸村の人たちと忠七らは乱闘となり、忠七は鍬を打ち込まれて殺害された。この水争いがきっかけとなって、東・西余... 続きを読む

文政6年の干ばつ

文政6年(1823)、干ばつのため稲の植え付けのできないところが多く、損毛高は116,258石余に及び、最大の凶作となった。この間、家中、郷町でも雨乞いの祈とうが大規模に行われた。(「増田家記」による) 続きを読む

文政6年の干ばつ

文政6年(1823)夏、旱損松山領内で11万石。(「松山叢談」による) 続きを読む

文政6年の水論

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文政6年(1823)、両余戸村、垣生村の3ヶ村と南吉田村が水論、騒動となり、南吉田村の百姓忠七が即死した。(「余土村誌」による) 続きを読む

文政6年の水論

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文政6年(1823)、伊予郡両余戸村・垣生(はぶ)村(3ヶ村)と温泉郡南吉田村が水論、百姓忠七が横死。(「愛媛県農業史」、「余土村誌」等による)(伊予の水論〔水争い〕年表) 続きを読む

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