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条件: 風水害
明治19年(1886)9月10日、大暴風雨、出水、菅生村で12戸倒壊。(久万町中野村の秋本富十郎氏の日記による)/筆者(露峰の人)の祖父の話によると、9月10日朝から大雨となり、橋は次々と流失し、午後には若宮組の米倉に浸水、夕方には雨はまずます激しくなり、西之... 続きを読む
明治19年(1886)9月10日、台風により石手川の堤防決壊、櫛生村の山岳崩壊などで死者80人の被害を出した。この台風の被害により、松山測候所設立の気運が高まり、明治21年に県議会で測候所設立を可決し、23年1月1日から観測開始となった。 続きを読む
明治19年(1886)9月10日午後3時から翌日11日午前5時頃まで、大しけとなった。また、9月24日~25日の大風、8月21日及び9月17日の台風と合わせて前後4回の台風で、津野山で農作物は皆無となった。 続きを読む
明治19年(1886)9月10日、風雨が激しくなり、長者川は急に増水した。午後には北風が猛烈になり、大木や人家が倒壊した。古川の堤防が切れて大洪水が稲田を流れると同時に、旧寺野では地すべりが起こり、人家が倒れた。このため、人々は右往左往しながらも、全員が安全地... 続きを読む
明治19年(1886)9月10日、台風が豊後水道を北上して猛烈な暴風雨となり、家屋・土蔵等の被害は吾川郡4,188戸、高岡郡10,036戸、死者は県下で40人に及んだ。この時、高岡郡仁淀村の旧寺野は地すべりで壊滅した。佐川松崎、室原、柏原で潰家38戸、半壊20... 続きを読む
明治19年(1886)9月10日の洪水により、物部川の堤防が西岸の竹が端で300間、東岸の仁尾島で150間決壊した。濁流は、西岸では立田、田村、物部、下島、久枝の各村を通り前浜村に至り、東岸では深渕村の田地を押し流した。この堤防決壊による修繕に関して、直接被害... 続きを読む
明治19年(1886)9月10日夜、台風が豊後水道を北上し、11日6時隠岐の北に出た。綜合斗賀野村誌略には「倒家33、死1、山の木多く倒れ2、3日後に赤山となる」と、戸波村誌には「10日15時より11日5時まで暴風雨出水甚しく倒家40間余り、大木倒れ堤防欠損」... 続きを読む