嘉永7年(1854)11月5日の地震により、郡中町で怪我人40人、人死20人。(「兵藤家文書」による)/郡中3町(灘町、湊町、三島町)のうち湊町だけで8人が家屋の倒壊の下敷きになるなどして死亡した。(「郡中三町の『独立』と安政大地震の記録」による) 続きを読む
安政元年(1854)11月5日、南海地震により、宮古野集落の裏山が崩壊し、崩壊土砂は伊勢川方向に大きく広がって堆積した。また、下地蔵寺集落より500mほど下流右岸の山端が割れ、川まで転がり落ちた。さらに、吉野川支流平石川上流部の有間で大崩壊(土量約570万立米... 続きを読む
昭和21年(1946)12月21日の南海地震により、長岡郡の海岸地帯では40~50cm、平均52cmの地盤沈下が認められている。長岡郡の地震被害は倒壊家屋1,470戸、浸水家屋5,600戸、浸水面積約300町歩で、ジェーン台風・キジア台風時の被害は浸水家屋約5... 続きを読む