文政6年の水論

災害年月日
1823年00月00日
市町村
愛媛県松山市
災害種類
渇水  
概要
文政6年(1823)は旱天続きで、下流では植え付けができずに困っていた。6月10日、南吉田村の忠七が西余戸村の井関を切り落としたため、これを知った東・西余戸村の人たちと忠七らは乱闘となり、忠七は鍬を打ち込まれて殺害された。この水争いがきっかけとなって、東・西余戸村、垣生村、南吉田村の間で分水の規約がつくられた。弘化4年(1847)には南吉田堂ノ元橋のたもとには「南吉田忠七墓」が建てられた。(「海南新聞(昭和9年7月9日付」による)
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備考
関谷忠七墓碑と分水功徳主命碑が建立されている。
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原資料
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参考文献
松山市史編集委員会編「松山市史 第2巻」(松山市、1993年)、389-392頁
情報源の種類
市町村史、郷土史
キーワード
干ばつ 水争い 関谷忠七
NO.
愛媛837

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