文政6年の水論

災害年月日
1823年00月00日
市町村
愛媛県松山市
災害種類
渇水  
概要
文政6年(1823)、伊予郡両余戸村・垣生(はぶ)村(3ヶ村)と温泉郡南吉田村が水論、百姓忠七が横死。(「愛媛県農業史」、「余土村誌」等による)(伊予の水論〔水争い〕年表)
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備考
南吉田町に関谷忠七墓碑と分水功徳主命碑が建立されている。
参考画像
参考文献
門田恭一郎「伊予における水論について(上)」(高須賀康生編「伊豫史談 第317号」伊豫史談会、2000年、所収)、34頁
情報源の種類
市町村史、郷土史
キーワード
水論 余戸村 垣生村 南吉田村 関谷忠七
NO.
愛媛1514

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