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大正元年(1912)9月22日、断続的な雨が数日間続き、22日夜に重信川、石手川は非常に出水して、23日暁には諸所で決壊し、余土、垣生で惨状を呈した。南吉井村も牛渕の南堤防をはじめ数箇所が決壊し、田園、家屋の流出は少なくなかった。(「相原日記」による) 続きを読む
昭和18年(1943)7月、台風による水害のため、重信川流域では被害が氾濫面積200町歩、堤防決壊8箇所に及んだ。鉄道は郡中線の被害がひどく、水中に線路が埋没してしまう状態であった。勤労奉仕隊として松山高等学校の生徒が20日間にわたり動員され、線路の復旧にあた... 続きを読む
昭和29年(1954)7月、梅雨前線により、重信川流域で水害が発生した。この時、川の流れを緩やかにし、堤防の洗掘拡大を防ぐために、わく入れ工法により水防活動が行われたが、危険を伴う作業であった。写真5枚。 続きを読む
昭和24年(1949)6月20日午、デラ台風により、南予地方海岸部及び宇和島に出漁中の漁船などは甚大な被害を受けた。行方不明800人の大半が日振島のいわし網漁船であった。(「愛媛の新聞100年」による)/17回忌にあたる昭和39年6月20日に沖の島に「デラ台風... 続きを読む
明治19年(1886)9月10日、大暴風雨、出水、菅生村で12戸倒壊。(久万町中野村の秋本富十郎氏の日記による)/筆者(露峰の人)の祖父の話によると、9月10日朝から大雨となり、橋は次々と流失し、午後には若宮組の米倉に浸水、夕方には雨はまずます激しくなり、西之... 続きを読む
嘉永2年(1849)7月9日より11日、久万地方で大暴風雨となった。倒壊家屋100余戸、田畑床流8町歩、道路橋梁破損数知れず。その時、松山藩は5ヶ年に米1,500俵、銭19貫694匁3分5厘(60匁が1両)を下賜されて久万山農民を救助されたという。 続きを読む