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明治34年(1901)6月30日、前日来雨が降り続き、夜に入って重信川は非常出水となり、横川(横河原)の西堤防が決壊した。(「相原日記」による) 続きを読む
明治34年(1901)7月15日、前日来の雨が降り止まず、再び過日(6月30日)決壊した横川(横河原)の西堤防より大水が入り、見奈良、田窪を襲い、鉄道が所々決壊した。(「相原日記」による) 続きを読む
明治35年(1902)8月11日、昨夜横川(横河原)の西堤防が決壊し、大水が見奈良に入った。また、ステーション(横河原駅)の東も切れ、水は内分に入り込み、婦女子が狼狽したが、これは堤防の復旧工事が不完全なために起こった被害であった。水害に関係のない樋口、志津川... 続きを読む
明治40年(1907)7月10日、昨夜より雨が降り、説くに正午頃甚だしかった。このため、重信川は大出水となり、午後牛渕の南堤防が決壊して稲田を流出させたが、人々が水防活動を行ったので大きな災害にはならなかった。11日夜には雨がますます激しくなり、牛渕の南堤防の... 続きを読む
大正元年(1912)9月22日、断続的な雨が数日間続き、22日夜に重信川、石手川は非常に出水して、23日暁には諸所で決壊し、余土、垣生で惨状を呈した。南吉井村も牛渕の南堤防をはじめ数箇所が決壊し、田園、家屋の流出は少なくなかった。(「相原日記」による) 続きを読む
明治21年(1888)9月11日、昨夜来の大雨で横川(横河原)の堤防が破損し、田窪村の東南に水が襲来したため、人々は水防に当たった。樋口村の字百軒と称する堤防が決壊し、横川(横河原)全域がほとんど浸水した。水勢は2つに分かれ、一つは志津川村の中央駅中の各家庭を... 続きを読む