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寛永7年の干ばつ

寛永7年(1630)8月2日、久米郡干害。 続きを読む

寛政9年の干ばつ

寛政9年(1797)、大干ばつにより、代官が大宮神社参拝、祝詞を奏上。 続きを読む

昭和9年の干ばつ

昭和9年(1934)、大干ばつ。冬期から降雨が少なく、植付期になっても降雨なく、各水利組合では会合を重ね、昼夜兼行で田植えの完了に努めた。7月20日頃には田植えが終わったものの、養い水なく、稲は枯死し、田は真っ白に亀裂を生じた。8月になっても穂水がなかったので... 続きを読む

昭和9年の干ばつ

昭和9年(1934)、大干ばつにより、樋口では40町歩、志津川では80町歩、西岡では50町歩が収穫皆無の大被害を受けた。 続きを読む

享保17年の干ばつ

享保17年(1732)、大干ばつのため、松山藩内10郡の代官の評議の結果、5月に川之内の雨滝神社、牛淵の浮嶋神社、北野田の三嶋神社が合同して「御面雨乞」が行われた。 続きを読む

昭和9年の大割泉の水論

昭和9年(1934)8月20日午前2時頃、北野田の農民約80人が大割泉に押しかけ、その泉を守っていた高井の農民3人を袋だたきにして重傷を負わせた。この年は大干ばつで、灌漑水不足のため、8月10日に高井の農民が大割泉に慣習違反の枠を入れて取水したことが原因であっ... 続きを読む

文政13年の水論

文政13年(1830)6月、日照りが続き重信川の流水が不足したため、滝ノ下井手をめぐって下林と北三か村(田窪、牛淵、南野田)の水論が発生した。6月20日夕方には、下林の百姓残らず観音堂に集結し、上村、津吉からも各々60人が加勢した。一方、北三か村も関表に多数集... 続きを読む

昭和36年の干ばつ

昭和36年(1961)、異常な干ばつに見舞われ、水不足に耐えかねた田窪、牛淵、野田の農民が田窪井堰に流水を送るため、見奈良神社付近から重信川底をブルドーザーで掘削して流水を変更するための水路を設け、かつ土俵を積んで流水をせき止めた。下林地区としては認めることが... 続きを読む

文化元年の洪水

文化元年(1804)8月29日、風雨、洪水により、松山領の損米36,058石。(「増田家記」による) 続きを読む

享保6年の洪水

享保6年(1721)閏7月15日、石手川溢水、領主出馬見分、損毛35,000余石、潰家889棟、死者72人、牛馬死10疋、山崩3万箇所。 続きを読む

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