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享保17年の干ばつ

享保17年(1732)、大干ばつのため、松山藩内10郡の代官の評議の結果、5月に川之内の雨滝神社、牛淵の浮嶋神社、北野田の三嶋神社が合同して「御面雨乞い」が行われた。 続きを読む

慶応3年の水論

慶応3年(1867)8月、大干ばつにより、北高井村では野津合泉で3個の足踏水車と5個の桶を用いて昼夜兼行で地下水を揚水した。これに対して、南高井村では北高井村が野津合泉の地下水を過度に汲み上げると、五反地泉の湧き水に大きな影響があると判断して反対した。8月19... 続きを読む

昭和9年の大割泉の水論

昭和9年(1934)8月20日午前2時頃、北野田の農民約80人が大割泉に押しかけ、その泉を守っていた高井の農民3人を袋だたきにして重傷を負わせた。この年は大干ばつで、灌漑水不足のため、8月10日に高井の農民が大割泉に慣習違反の枠を入れて取水したことが原因であっ... 続きを読む

宝暦2年の水論

宝暦2年(1752)6月27日、旱天により、地割れした粕毛(かすげ)井堰掛かりの田を救うために、今在家・来住・南北久米の組頭らが森松村庄屋におもい堰の落水を頼んだが了解が得られなかったため、おもい堰を破壊した。翌28日、森松村から大勢の人足が出ておもい堰をせき... 続きを読む

文政13年の水論

文政13年(1830)6月、日照りが続き重信川の流水が不足したため、滝ノ下井手をめぐって下林と北三か村(田窪、牛淵、南野田)の水論が発生した。6月20日夕方には、下林の百姓残らず観音堂に集結し、上村、津吉からも各々60人が加勢した。一方、北三か村も関表に多数集... 続きを読む

天明7年の水論

天明7年(1787)から翌8年にかけて、日瀬里村の権名津の新井手をめぐって、日瀬里村と南北久米・来住の各村間で水論があった。南北久米・来住の各村が権名津の新井手に反対したが、藩が天明7年7月に実情調査し、日瀬里村に有利な判定をしたため、南北久米・来住の3ヶ村の... 続きを読む

昭和36年の干ばつ

昭和36年(1961)、異常な干ばつに見舞われ、水不足に耐えかねた田窪、牛淵、野田の農民が田窪井堰に流水を送るため、見奈良神社付近から重信川底をブルドーザーで掘削して流水を変更するための水路を設け、かつ土俵を積んで流水をせき止めた。下林地区としては認めることが... 続きを読む

寛政9年の干ばつ

寛政9年(1797)、大干ばつにより、代官が大宮神社参拝、祝詞を奏上。 続きを読む

昭和9年の干ばつ

昭和9年(1934)、大干ばつ。冬期から降雨が少なく、植付期になっても降雨なく、各水利組合では会合を重ね、昼夜兼行で田植えの完了に努めた。7月20日頃には田植えが終わったものの、養い水なく、稲は枯死し、田は真っ白に亀裂を生じた。8月になっても穂水がなかったので... 続きを読む

慶応元年の干ばつ

慶応元年(1865)、干ばつ。 続きを読む

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