文政6年の水論

災害年月日
1823年00月00日
市町村
愛媛県松山市
災害種類
渇水  
概要
文政6年(1823)、両余戸村、垣生村の3ヶ村と南吉田村が水論、騒動となり、南吉田村の百姓忠七が即死した。(「余土村誌」による)
地理院地図
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備考
関谷忠七墓碑及び分水功徳主命碑が建立されている。
参考画像
参考文献
富久歴史資料集編集委員会編「富久とその地域の歩み」(富久歴史保存会、1997年)、30頁
情報源の種類
市町村史、郷土史
キーワード
水争い 垣生村 南吉田村 忠七 余土村誌
NO.
愛媛1736

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