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昭和2年(1927)8月26日昼から降り出した豪雨は夜になってますます激しくなり、夜中大雨と雷が続いた。稲村で黒森山の東急斜面の大崩壊により家屋4戸が全壊、流失し、死者9名を出すとともに、耕地は石原の荒れ地と化した。鎌井田では用水谷の上方で崩壊が起こり、山津波... 続きを読む
昭和46年(1971)8月30日9時、台風23号は鹿児島県佐多岬に上陸し、日向灘に抜けて四国全域を暴風雨圏に巻き込んだ。16時には大きくUターンして足摺岬に上陸、その後高知空港付近を通過した。この台風で笠ノ川川、国分川、舟入川、明見川などが増水し、床上・床下浸... 続きを読む
昭和47年(1972)9月14日から降り始めた大雨は15日にひどくなり、高知市では15日午後6時からの1時間雨量は92ミリに達した。集中豪雨に見舞われた南国市北部では被害が激甚で、笠ノ川川、国分川の堤防が至る所で決壊し、笠ノ川川・八幡では浸水家屋が続出し、岡豊... 続きを読む
昭和51年(1976)9月8日に降り出した台風17号による雨は、12日に県中部に集中豪雨をもたらした。南国市の雨量は830ミリに達した。稲生、片山、朝日町、西野野、後免、野田など舟入川から下田川沿いで家屋の浸水が多かった。また、白木谷、蒲原などで山崩れがあり、... 続きを読む
明治6年(1873)、干天続きで、植田地区の水田が枯死寸前の状態になったため、新改川下流の植田地区の農民は上流の須江部地区の農民に対して、コロンボ堰の分水を迫った。しかし、拒否されたため、両者が数回にわたり、衝突した。御免、山田両警察署は警官十数名を派遣し、鎮... 続きを読む
明治9年(1876)の旱害は、明治6年の2倍3倍にも上った。新改川のコロンボ堰からの分水をめぐり、上流の須江部地区と下流の植田地区の農民が対立した。このため、両地区は県庁に対して配水の措置を誓願した。県は、上流の大釜堰から下流の掘ノ井堰に24時間交代で配水する... 続きを読む
明治26年(1893)、干ばつにより、植田地区350石、久次地区80石、須江上改田20余石の田は枯死寸前となった。植田・久次の農民はツイノイ堰(須江本田堰)を破壊しようとしたが、急報により100余名の警官が出動して堰を守り、事なきを得た。この水論を契機に、水争... 続きを読む