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明和8年(1771)、干ばつのため、一之井手がかりの南神崎・上野・徳丸・出作・八倉5村700人ほどが古樋井手を切り落とし、上麻生・下麻生200人と矢取川の河原で大乱闘を繰り広げ、南神崎と八倉各1人の死者を出した。この事件は幕府に届けられ、各村庄屋・組頭・百姓ら... 続きを読む
昭和42年(1967)、大干ばつのため、天水に頼っていたみかん栽培は甚大な被害を受けた。このため、ダム建設の計画が多くの人に支持され、石手川ダムが洪水調節、かんがい、上水道の用水補給を目的とした多目的ダムとして建設され、昭和48年3月に完成した。 続きを読む
明治32年(1899)8月28日、豪雨により、別子山で山津波が起こり、死者が600人近くに及ぶなど大きな被害が出た。この稿には、見花谷方面、両見谷方面、高橋方面、小足谷方面、東延方面で筆者が目撃した被災状況等が記されている。 続きを読む
明治32年(1899)8月28日、豪雨により、別子山で山津波が起こり、死者が600人近くに及ぶなど大きな被害が出た。この稿には、角石原付近、風呂屋谷方面、目出度町方面などで筆者が目撃した被災状況等が記されている。 続きを読む
明治32年(1899)8月28日、豪雨により、別子山で山津波が起こり、600人近くの生霊が奪われ、200年の伝統を誇った上部溶鉱炉と、硫酸銅工場及び坑水収銅場等の設備が破壊された。この稿には、別子銅山での筆者の災害体験が記されている。 続きを読む
元禄6年(1693)、田植え時期になっても降雨がなく、越智郡一帯は大干ばつとなった。各地で雨乞い祈祷が行われたが、6月半ばに至るも効験がなく、代官所では光林寺へ雨乞いを依頼した。光林寺の光範上人は16日より奈良原権現で雨乞い祈祷を行い、18日は多少の降雨があり... 続きを読む