検索結果

29860件のアーカイブスが見つかりました。

条件:

年代順で並び替える : |

明治19年の水害

image

明治19年(1886)9月24日午後7時、風雨がますます烈しくなり、午後11時に櫛生村須沢の奥の谷が100余間崩壊し、山麓の人家が埋没、流失した。堆積は最大72尺に及んだ。須沢での被害は、死者39人(男22人、女17人)、家屋の流失7戸、埋没43戸、倒壊19戸... 続きを読む

明和8年の干ばつ

image

明和8年(1771)、大干ばつのため、徳丸村・出作村(松山領)・南神崎村・上野村(天領)及び八倉村(大洲領)の五ヶ村が古樋井手の筧を切り落としたため、上麻生村(大洲領)・下麻生村(新谷領)の両村と間で乱闘が起こった。この矢取川の乱闘で死者2人と多数の負傷者が出... 続きを読む

明治32年の台風

image

明治32年(1899)8月28日、東予地方に暴風雨が襲来し、千余人の犠牲者を出した。この記録には、当時神戸新聞の記者であった江見忠功が現地から報告した「別子銅山変災視察録」第7報~第10報が記されている。 続きを読む

明治32年の台風

image

明治32年(1899)8月28日、東予地方に暴風雨が襲来し、千余人の犠牲者を出した。この記録には、当時神戸新聞の記者であった江見忠功が現地から報告した「別子銅山変災視察録」第1報~第6報が記されている。 続きを読む

明治32年の台風

image

明治32年(1899)8月28日、四国地方に襲来した暴風雨による山崩れ・洪水により、新居郡・宇摩郡の死者は1,200余人に及んだ。このうち33人の遺体は、5日後に香川県の仁尾海岸に漂着した。仁尾町の人々は手厚く葬り、3回忌には「溺死三十三霊之塔」を建立した。 続きを読む

明治32年の台風

image

明治32年(1899)8月28日の別子山村の風水害は、別子銅山の鉱害に原因があるとして、技師を派遣して調査させることを要求した建議が、12月12日に愛媛県議会に提出され、12月14日の第一読会を経て、満場一致で採用され確定議となった。(「愛媛県議会議事録第58... 続きを読む

文化6年の干ばつ

image

文化6年(1809)6月26日、干ばつのため、宇和島領平地村の竹之窪井堰で、新谷領阿蔵村と大洲領大洲村との間に水論が起こった。阿蔵村は慣例にしたがい上流の平地村に申し入れ、竹之窪井堰の水脈をあけたが、大洲方がせき止めたため水が途絶えた。このため、両者は口論とな... 続きを読む

文政6年の水争い

image

文政6年(1823)6月10日、突分ヶ堰をめぐり南吉田村と余戸村・垣生村の間で乱闘が起こり、南吉田村の忠七が横死した。この時は、近郷の寺の僧侶が仲介に入り、新たな分水法を定めて決着した。さらに、25回忌の弘化4年(1847)に「南吉田村忠七墓表」が建てられ、「... 続きを読む

明和8年の干ばつ

image

明和8年(1771)、干ばつのため、6月8日、八倉・宮ノ下・上野・徳丸・出作各村の700人の集団が小樋井手を切り落としたため、上麻生・下麻生両村民と矢取川で乱闘となった。この争いで宮ノ下村六兵衛、八倉村作左衛門の2人が死亡した。天領から死者が出たため、大洲藩も... 続きを読む

昭和14年の水論

image

昭和14年(1939)、釜之口大番水の配分で水論。(「周桑のくらし」による)(伊予の水論〔水争い〕年表) 続きを読む

1 2,333 2,334 2,335 2,336 2,337 2,338 2,339 2,340 2,341 2,342 2,343 2,986