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天明5年の水論

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天明5年(1785)、干ばつのため、菖蒲堰で水論が起こった。北方村が上堰をこれまでより高くして取水したため、下堰を利用する樋口・志津川・西岡3ヶ村が用水に窮して争論となった。郡役人の裁定によって、堰の門樋に分木を立てて、5寸6歩までを北方村へ(但し引水の井手幅... 続きを読む

元文4年の水論

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元文4年(1739)、菖蒲堰の上堰を利用していた北方村が堰を二重にするとともに、中世以来の禁止条項を破って土砂を用いて取水を始めた。用水が枯渇した下堰の樋口・志津川・西岡3ヶ村が抗議したが、北方村が慣行に従わなかったため、下堰側3ヶ村民は実力行使で堰を切り崩し... 続きを読む

明治9年の水論

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明治9年(1876)、菖蒲堰の大落水をめぐり、北方村と樋口・志津川・西岡の3ヶ村で水論があり、双方に負傷者が出た。愛媛県の仲裁を仰いだ。(東温市の水利年表) 続きを読む

天明8年の水論

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天明8年(1788)、菖蒲堰の分水をめぐり、北方村と樋口外4ヶ村で水論が起こった。(東温市の水利年表) 続きを読む

天明5年の水論

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天明5年(1785)、菖蒲堰の分水をめぐり、北方村と樋口外4ヶ村で水論が起こった。(東温市の水利年表) 続きを読む

元文4年の水論

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元文4年(1739)、菖蒲堰の分水をめぐって、樋口外4ヶ村と北方村で水論があったが、分水率は明確に決まらなかった。(東温市の水利年表) 続きを読む

昭和9年の干ばつ

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昭和9年(1934)、何か月も雨の降らない日が続き、ひどい干害を受けた。農家の人の中には、少ない地下水を汲み上げ、杓ややかんで稲にかける人もいたが、稲はほとんど枯れ、収穫は平年の半分もなかった。この干ばつを契機に、松田喜三郎の提唱により、俵原池の建設工事が昭和... 続きを読む

文政6年の水論

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文政6年(1823)、両余戸村、垣生村の3ヶ村と南吉田村が水論、騒動となり、南吉田村の百姓忠七が即死した。(「余土村誌」による) 続きを読む

貞享2年の地震

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貞享2年(1685)、地震のため、松山城郭が破損、道後温泉の湯が止まった。 続きを読む

慶安2年の地震

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慶安2年(1649)、地震のため、松山城の石垣が崩れた。 続きを読む

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