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宝永7年の干ばつ・台風

宝永7年(1710)、干ばつが続き、大風、洪水があった。(災害年表) 続きを読む

明治6年の台風・干ばつ

明治6年(1873)、暴風雨、洪水、干ばつになった。(災害年表) 続きを読む

寛永元年の干ばつ

寛永元年(1624)、讃岐は大干ばつに襲われた。西嶋八兵衛の「由緒書之控」によれば、「寛永元子の年、大日焼けにつき讃岐寒国になり申し候」という悲惨な有様であった。 続きを読む

寛永3年の干ばつ

寛永3年(1626)、讃岐を大干ばつが襲った。この翌年、幕府の隠密が讃岐に入り、災害の跡を記録した「讃岐探索書」が残されているが、これによると「寛永三年の物成、ことごとく日に焼け、十の物一つ御座候の由にて・・・・(中略)一村にて五人、六人づつ見る見る、かつへ死... 続きを読む

寛永20年の干ばつ

寛永20年(1643)、大干ばつが讃岐を襲った。「卯月下旬より六月下旬に至り、雨なし、諸国秋より冬に至り、餓死衟(ちまた)に満つ。当国その十分の一に及ぶ」(讃岐国大日記)という悲惨な有様であった。 続きを読む

正保2年の干ばつ

正保2年(1645)、大干ばつ。「増補高松藩記」には「この年、封内大旱、陂池(ため池)四百零六を創築し、もと有る九百六十と併せ、総計壱千三百六十という」と記されている。/「この歳、三時(春夏秋)雨降らず。大いに麦禾(米麦)なし」(全讃史」による) 続きを読む

明治10年の水争い

明治10年(1877)8月10日夜、田中村(三木町)の農民200~300人が新川支流の吉田川上流の屋古戸関に押し寄せて、鍬で井関を打ち壊した。この井関は氷上村(三木町)の奥の堂池と堀切池に取水するためのもので、氷上村では夜明けを待って数百人が切り落とされた井関... 続きを読む

文化14年の干ばつ

文化14年(1814)、日照りが厳しかった。このため、氷上村が屋古戸関から取り入れた用水を再び吉田川に放流する落ち口に、田中村が新しく井関を築造したため、氷上村の一の井関には水が流れなくなった。氷上村は田中村の理不尽なやり方に怒って、郡役所に訴え出た。 続きを読む

大正2年の干ばつ

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大正2年(1913)、干ばつのため、三郎池の水配分をめぐって大紛争が起きた。三郎池の貯水量が2割まで減った時、下流の木太村・林村の農民が押しかけて水を流すように迫ったが、上流の三谷側は「最後の水は敷き村の権利だ」と主張して譲らず、堤防上に双方多数の農民が集まっ... 続きを読む

弘化3年の干ばつ

弘化3年(1846)夏、大干ばつのため、常水田を誇る石仏免も水不足で難儀した。 続きを読む

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