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大正2年(1913)、干ばつのため、三郎池の水配分をめぐって大紛争が起きた。三郎池の貯水量が2割まで減った時、下流の木太村・林村の農民が押しかけて水を流すように迫ったが、上流の三谷側は「最後の水は敷き村の権利だ」と主張して譲らず、堤防上に双方多数の農民が集まっ... 続きを読む
正保2年(1645)、大干ばつ。「増補高松藩記」には「この年、封内大旱、陂池(ため池)四百零六を創築し、もと有る九百六十と併せ、総計壱千三百六十という」と記されている。/「この歳、三時(春夏秋)雨降らず。大いに麦禾(米麦)なし」(全讃史」による) 続きを読む
正保2年(1645)春から秋まで、雨が降らずに未曾有の干ばつとなった。このため、高松藩主松平頼重は家臣矢延平六らに命じてため池406を築かせたが、その一つが大窪池であった。領内の池は従来の960と合わせて1,366になった。 続きを読む
寛永3年(1626)4月から7月中旬にかけての3ヶ月余り、讃岐には一滴の雨も降らない大干ばつであった。田は白くひび割れが生じ、稲の収穫は皆無、餓死する者多数と、古い記録は伝えている。当時、高松藩主生駒高俊は伊勢から西嶋八兵衛を招き、藩内でため池築造を進めていた... 続きを読む
文化元年(1804)6月、7月、干ばつ。この年から文化6年までの干ばつにより、大窪池掛かりも干害を蒙り、池の増築の要望が高まった。その要望は水掛かりの政所から鵜足郡大政所を通じて、高松藩庁に伝えられ、文化7年(1810)に高松藩の藩普請として大窪池の増築工事が... 続きを読む
文化3年(1806)4月~6月、大干ばつ。文化元年(1804)から文化6年までの干ばつにより、大窪池掛かりも干害を蒙り、池の増築の要望が高まった。その要望は水掛かりの政所から鵜足郡大政所を通じて、高松藩庁に伝えられ、文化7年(1810)に高松藩の藩普請として大... 続きを読む
文化5年(1808)、干ばつ。文化元年(1804)から文化6年までの干ばつにより、大窪池掛かりも干害を蒙り、池の増築の要望が高まった。その要望は水掛かりの政所から鵜足郡大政所を通じて、高松藩庁に伝えられ、文化7年(1810)に高松藩の藩普請として大窪池の増築工... 続きを読む
文化6年(1808)6月~8月、大干ばつ。文化元年(1804)から文化6年までの干ばつにより、大窪池掛かりも干害を蒙り、池の増築の要望が高まった。その要望は水掛かりの政所から鵜足郡大政所を通じて、高松藩庁に伝えられ、文化7年(1810)に高松藩の藩普請として大... 続きを読む