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安政元年の南海地震

安政元年(1854)11月5日午後5時頃より夜半まで激震、人家の壁や屋根瓦等が墜落し、家屋の半壊等もあった。また、地面の諸所に亀裂を生じ、人々は仮小屋を設けて45日間避難した。世に寅の年の大地震という。微震は年末まで止まらなかった。 続きを読む

平成6年の干ばつ

平成6年(1994)7月、降水量が少なく、18日には愛媛県渇水対策本部が設置された。菊間町でも、7月15日の干害被害状況調査で、柑橘、キウイ、野菜について今後の被害が心配されると報告された。この干ばつによる菊間町の農作物への被害は、野菜6ha、1,110万円、... 続きを読む

文政3年の干ばつ

文政3年(1820)、大干ばつとなった。およそ100日間雨が降らず、本島各村の農民は友浦の神路渡明神社に集まり、10日間雨乞いの祈祷を行った。 続きを読む

明治6年の干ばつ

明治6年(1873)2月頃から降雨がなく、5、6月になっても雨はなく、稲播種の養水を得ることができず、県下一円深刻な水飢饉の様相を呈した。数万町歩の田地は干し上がって亀裂を生じ、泉水を汲んで田植えをしても枯萎し、そば、大豆などを播いても炎日のため生育しなかった... 続きを読む

昭和21年の南海地震

昭和21年(1946)12月21日、南海大地震により、弓削島は0.5~1.0mの地盤沈下をこうむり、海岸の畑や県道の浸水・流失事故が多くなった。このため、年々護岸工事やテトラポットによる消波工事に莫大な費用を必要とするようになり、一時弓削町の経済負担は大変なも... 続きを読む

明治32年の台風

明治32年(1899)8月28日、台風により、東予地方の山間部では豪雨となり、宇摩、新居郡、特に別子銅山では大規模な山崩れが続出し、死者512人、家屋倒壊122戸等の惨状を呈した。別子銅山はその施設設備に大損害を受けた。 続きを読む

昭和9年の干ばつ

昭和9年(1934)5月以降、降雨量が極端に少なく、7月に多少の降雨があったが、それ以後は晴天続きで、用水確保が困難な生名村では稲の植え付け不能となった水田が続出した。事態は深刻化し、愛媛県の町村会長ほかが政府関係当局に陳情するとともに、県当局に対して協力に対... 続きを読む

昭和9年の干ばつ

昭和9年(1934)5月以降から降雨量が非常に少なく、県下では稲の植付不能1,000町歩、遅延10,000町歩以上となった。8月末まで夏型天候が続き、大旱害となった。宮窪町では大川筋に跳ね釣瓶が立ち並び、稲田に水を汲み上げる作業が行われた。 続きを読む

寛政2年の干ばつ

寛政2年(1790)7月、干ばつにより、松山藩で米の被害が7,450石に及び、藩庁では領民に対して倹約を続けるように命じた。木浦村では「この年(寛政2年)は旱害で、夏作、秋作とも大きな被害を受けました。」(木浦村年代記)と記されている。 続きを読む

昭和14年の干ばつ

昭和14年(1939)7月初めから夏型の気圧配置で、高温寡雨で、宮窪町では植え付けしてもその後の水不足のため収穫皆無となる田もあった。その中で、向側の共同耕作は特筆される。その方法は、脇田農事実行組合、法金農事実行組合が協力して、数原池掛りの水田7町6反余のう... 続きを読む

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