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昭和21年(1946)12月21日、南海大地震により、弓削島は0.5~1.0mの地盤沈下をこうむり、海岸の畑や県道の浸水・流失事故が多くなった。このため、年々護岸工事やテトラポットによる消波工事に莫大な費用を必要とするようになり、一時弓削町の経済負担は大変なも... 続きを読む
明治32年(1899)8月28日、台風により、東予地方の山間部では豪雨となり、宇摩、新居郡、特に別子銅山では大規模な山崩れが続出し、死者512人、家屋倒壊122戸等の惨状を呈した。別子銅山はその施設設備に大損害を受けた。 続きを読む
昭和9年(1934)5月以降、降雨量が極端に少なく、7月に多少の降雨があったが、それ以後は晴天続きで、用水確保が困難な生名村では稲の植え付け不能となった水田が続出した。事態は深刻化し、愛媛県の町村会長ほかが政府関係当局に陳情するとともに、県当局に対して協力に対... 続きを読む
昭和9年(1934)5月以降から降雨量が非常に少なく、県下では稲の植付不能1,000町歩、遅延10,000町歩以上となった。8月末まで夏型天候が続き、大旱害となった。宮窪町では大川筋に跳ね釣瓶が立ち並び、稲田に水を汲み上げる作業が行われた。 続きを読む
寛政2年(1790)7月、干ばつにより、松山藩で米の被害が7,450石に及び、藩庁では領民に対して倹約を続けるように命じた。木浦村では「この年(寛政2年)は旱害で、夏作、秋作とも大きな被害を受けました。」(木浦村年代記)と記されている。 続きを読む
昭和14年(1939)7月初めから夏型の気圧配置で、高温寡雨で、宮窪町では植え付けしてもその後の水不足のため収穫皆無となる田もあった。その中で、向側の共同耕作は特筆される。その方法は、脇田農事実行組合、法金農事実行組合が協力して、数原池掛りの水田7町6反余のう... 続きを読む